アリバイ360時間
コメント(0)| Track back(0) | 2008-03-11 04:35:02
捨てられた犬猫を飼う飼わない、 可愛そうなら飼え、という話になり水掛け論になるが、 ただ殺されていく犬猫の命に罪は無い。 私は動物愛護団体でない。エコに強い関心があるわけでも 緑化運動をしているわけでもない。 ただ、 命が生まれたこと、死ぬことにもっと重要な意味があって 感じ取っても良いのではないか。と思うのだ。 「地球に優しい」というキャッチフレーズに踊らされる前に 35万匹の犬猫の行方にもっと目を向けてもいい問題だと思うが。 「地球はそう優しくも無い」 「自然を支配することは出来ない」 「何か食らわないと生きてはいけない」 「シンイチ、この世で一番惨酷な生き物は人間だと思うぞ」(あってますか?) 「塵の一つでしかない」 昔ほどではないが時々、私は命について考えてしまうが結論は出ないし いい文章もかけないし 行動も起こせていない。 他の人はどう思っているのだろう。。。 さてさて、カップめんですが 私は時々無性に食べたくなるくらいです。
アリバイ
馬券の予想が外れて人生大失敗
コメント(0)| Track back(0) | 2008-03-11 04:34:21
私は無駄に消え行く命にたいして無感情な人間に責任があると思う。 インタヴュアーは「処分」という表現を使っていたが インタヴューされている側は犬猫たちがどうなるのかピンときていなかった。 その反応はメディアの保健所に連れて行く人間の無慈悲さをだす 「演出」なのかもしれないが 薬殺処分される犬猫の映像を見せ、その反応を 見せる必用があったと思う。 どれだけ罪深いことをしたかを。 ガス室に入れられてのた打ち回って苦しみもだえ死に、廃棄される 犬猫達を見て。 人間がガス室で35万人毎年死ぬとなったらどう受け止めるだろうか。 助けてくれというのだろうか?それとも運命を受け入れるのだろうか? 豚や、鶏や、牛や、馬や魚は糧となり、殺される理由はあるが どう解体され食卓までのぼるか一度は見て考えたら 自分本位ではなく争いの無い、 色々なことに思いやりのある人間になれるのでは? と甘い考えを持ってしまう。
競馬 予想
風俗で働く黒服の日記
コメント(0)| Track back(0) | 2008-03-11 04:33:53
あるニュース番組で取上げていたのですが タイトルは捨て猫や飼えなくなった犬を年間保健所で処分する数だ。 メディアの取上げ方はこう。 インタヴューされた人達は 野良猫の鳴き声が煩いから。 野良猫にえさをやる人がいて泣き声がつらくて連れて来た。 年をとって痴呆になり夜泣きが煩くなって近所に苦情を言われたから。 飼っていたのは子ともで私は飼いたくないと言ったから。 インタヴュアーは飼主たちの身勝手さを指摘したが どうだろう。責任はそこにだけあるのだろうか?
風俗
アメコミで高収入
コメント(0)| Track back(0) | 2008-03-11 04:33:32
タモクラにマーティが出てた!やったー 笑顔測定やってて マーティアメコミみたいな顔になってきた。年取ったなー。。 安斎さんも年取った。 検索ちゃんにふかわりょうがでてたけれど気持ちわるがられてた。 それどころじゃなくて体調がかなり悪いのどうにかしてくれー。。。 さてさてこのコンタクトレンズ着けたらどうなるんだろ? 映像が近すぎて理解できなかったり? どうせ改造するなら少佐なみに改造したい。
高収入
そろそろ、商店街は飾られて〜〜
コメント(0)| Track back(0) | 2007-12-26 14:27:32
なんだか高いような気がした。求人でした。 時には、こんな量では効かないのにと言われたこともある。 薬を買って、景品のティッシュをもらえることに違和感を感じた。 大学病院前の処方薬局ではなく、自宅近くの薬局に替えたことがある。 そうしたらとても楽になったが、高収入だが、 薬がなくて取り寄せになって時間がかかった。風俗行った。
ガタガタ((((゚Д゚))))ブルブル
コメント(0)| Track back(0) | 2007-12-26 13:35:33
なぜかすっきり起きて、 昨日は気の重いPTAのお集りに。 新体制の始まりだったが、なんだかめんどくさい。 これでいろいろ省略し変えてきた結果と聞くが、 まだまだ不合理なところが多いように思う。 が、私に変更する力も意欲もない。そして高収入じゃない。 うちの子は、どうせい卒業祝賀会とかもさぼるんだろうな。
「迷いの末は」
コメント(0)| Track back(0) | 2005-12-31 17:02:34
『文芸春秋』の新年号に、作家ばかりの座談会という記事がのせられている。河豚(ふぐ)礼讚、文芸雑誌の今昔などというところから、次第に様々の話題へ展開しているこの記事は、特に最後の部分、二・二六と大震災当時の心境についてそれぞれの出席者が所感を語っている部分に至って、読者の感想を喚(よ)び出す幾多のものを示している。徳田秋声、菊池寛、久米正雄等の作家たちが、震災以来今日までの十五年間に生きて来た社会的な道すじ、及び今日それぞれの人々が占めているこの社会での在り場所というものを、自ら読者に考えさせる言外の暗示を少なからず含んでいるのである。
この座談会で、次のような話が交わされた。
徳田秋声「パリから白鳥君(正宗)が手紙をよこしてね。こっちに又来たけれども、退屈な日を送っていると云っているのだね。今度はお寺やなんかばかり見ている。鞄の中に西鶴のものが一冊入って居って、それが今一番ぴったり来るというのだね。向うのことは何にも分らんという。そんなことが書いてあった」
久米正雄「白鳥氏なんかよく享楽しているよ」
徳田秋声「そりゃそうですな」
短い言葉のやりとりの裡に、語る人々、語られる人の風貌が躍如としていて、まことに面白い。全く白鳥という人は、世間並より或はずっとよく、そして巧に享楽もしつつ、退屈げな顔つきを日常の間にも作品の中にも漂わす作家なのであろう。向うのことは何にも分らない、なりにこの人は落付いている。彼を落付かせているものがよしんば何であろうとも、彼はそれを旅券や財布とともにパリの真中でも落しっこない人なのである。
横光利一氏はそうはゆかない。向うのことは何にも分らないで白鳥のように安心も出来ないし、同時に此方のことが何にも分らないでも通用しかねるという苦しい自覚におかれた。『改造』新年号に「厨房日記」を読んだ人は、おそらく梶という名で立ちあらわれている一人物を通して作家横光の複雑な苦境と混乱とそれに何とか恰好をつけようとしてとられている身振りの貧寒さを感ぜざるを得なかったであろうと思う。
これが固着的に考えられれば、
コメント(0)| Track back(0) | 2005-12-30 17:02:15
どんなに現実からはなれたものとなるかは、毎朝の新聞一枚よめば誰のめにも明白である。日本の一九四七年にブルジョア民主主義の完成を求めるというひとは、どこにその実際の経済的地盤――次第に興隆に向いつつある若い資本主義を見出そうというのだろう。日本の全人民が収入の七割以上を税金にとられ、終戦費がそこから出されてもゆく、そのどこにワルト・ホイットマンの時代の社会があるというのだろう。
歴史の圧縮された二重の性格を貫いて、人民生活の安定を可能とする方向として人民的な民主主義という、第二次大戦後の新しい歴史的環がつかまれるのである。
「真夏の夜の夢」は、まだきょうほどせっぱつまらなかった戦後の懐中に応じて、非常に好評であり、経済的にもあたったとされている。
土方与志氏が、東宝の大世帯の全体を活用しなければならない条件を考慮しながら観てたのしく、新鮮で変化にとみ、下劣でもないよろこびを、疲れた日本に与えようとした努力は十分につぐのわれた。「真夏の夜の夢」を劇として支えているのは、アテナの二組の若い恋人たちではなくて、插話的にあつかわれている職人衆の素人芝居の場面であることは面白い。あすこには、ほんとうに腹から笑う素朴なおかしさと、生地むいだしの人間らしさとがあってシェクスピアという戯曲家の着目と力量とが、全くひととおりのものでないことをうなずかせた。
この職人衆のリアリスティックな場面に対して、二組の恋人たちが、森の中で精霊たちのいたずらにあってうきめをみるおかしみが、巧みに配置されている。しかし、きょうのわたしたちは、「真夏の夜の夢」の変化の多様さ、飽きさせなさの間にやっぱりルネッサンス時代の人間精神の暗さと野蛮さとを感じる。面白がって、笑ってみている若い人々の、その人たちの運命は、森の精霊よりもっと兇悪な日本の軍事的暴力のために、あれほどまでに愚弄された。舞台では、アテナの二組の恋人たちが、パックのおとす一滴の草汁のために、対手をとりちがえ、愛そのものをとりちがえて、泣きつ叫びつ混乱する。それを、ゲラゲラ笑って見ているほど、それほど愚弄されることについて日本民衆の感覚はマヒさせられている。軍事的愚弄をうけっぱなしの笑いかたをしていた。笑いは決して諷刺にまでたかまっていなかったし、演出者の力点も、アテナの主権とそのしきたりに反抗する若い二組という面で強調されていた。つっこんで云えば、そういう政治権力に抵抗したあの時代の若い人々の自然発生の自覚は、同時にあんな魔法でひっぱりまわされるほど哀れに暗い一面をもっていた、ということにルネッサンスそのものの時代性がある。半ばさめ、半ば眠っている日本の現代への諷刺として、この点を興味ふかくとらえるならば、演出者は、ルネッサンスを歴史性ぬきの人間解放の面からだけ解説せず、その暗黒さにおいてもリアルに解説して、観衆の心に笑いながらいつか心にのこされてゆく疑問を植えるべきではなかったろうか。
ベリンスキーのルネッサンスとシェクスピアについての省察は、特に今日のわたしたちにとって、切実な示唆をもっている。
〔一九四八年二月〕
一九四五年の秋から昨今、
コメント(0)| Track back(0) | 2005-12-29 17:01:59
また人間性の解放ということが云われ、ルネッサンスがそれにつれてひき出されている。こんどの人間性解放ということは、ポツダム宣言受諾後の日本として、封建性への反逆その否定、ブルジョア民主主義の完成という問題とからんで出されている。
十三世紀からはじまったルネッサンスは、なるほどヨーロッパにおける近代の暁であった。しかし、日本の今日が、当時のイタリーやフランスのような経済事情に立っているだろうか。政治事情に立っているだろうか。小さいおくれた日本にも四世紀を経たヨーロッパの歴史の波が、おのれの歴史的現実として存在している。後進資本主義国であり、天然資源の貧寒な条件におかれているだけ、一方に世界の帝国主義的な段階の特質をつよくあらわして来た。そうでなかったら、日本が明治以来、軍国主義でかたまる必要がどこにあったろう。日本の民主化の課題の複雑さは、われわれの生活に封建的なものがどっさりこびりついていながら、同時的に資本主義の悪徳にわずらわされているという現実の状態にある。日本の民主主義の道には、この二重の投影がある。したがって、日本での人間性の解放を具体的に考えるとき、それはこの二重の影を二重に、同時的にうちひらいてゆく運動の理解に立たなければならない。理屈の上でそうなのではなくて、事実が、それを求めている。
この日本の民主主義の複雑な性格のために人間革命ということの理解も、固定して扱われがちであり、そのために実際の歴史的動力としての溌溂さを失っている。ブルジョア民主主義を完成してから――そこで個人個人の人間革命を完成させてから、その次の社会主義的な民主主義に――より社会的要因の多い個人への発展に向うと考える考えかたがはびこっている。
真夏の夜の夢
コメント(0)| Track back(0) | 2005-12-28 17:01:34
ルネッサンスという時代が、人間理性の目ざめの時期でレオナルド・ダ・ヴィンチを産みながら一方では魔力が人間生活に直接関係するということをまだ信じていた野蛮な時代であったという事実を、はっきり会得しなければならないと思う。とくに、いまの日本では。――ケプラーの伝記、メレジェコフスキーの小説をみてもそのことはまざまざと描き出されている。
最近の十数年間に、日本では二度、ルネッサンスにむすびつけて人間性の解放または人間とその文化の復興ということが云われた。はじめのときは一九三三年ごろ、プロレタリア文化運動が弾圧されつくして、日本の文化が歴史的な発展の道をふさがれたとき。その頃日本ロマン派と云われた一団の人々は、人間性の復興、文芸復興と叫んだが、その叫びは徒に空に消えて、それらの人々は林房雄を先頭として急速にファシズムにしたがえられて行ってしまった。日本ロマン派のルネッサンス論には、現実の社会生活の中で最も本質的な一つの理解がかけていた。あるいは、これらの人々は故意に、その一点をさけてとおり、または見ないふりをした。その一点こそは、ベリンスキーがシェクスピアについて云っているルネッサンスの歴史的核心、ルネッサンスの歴史性についてであった。現代とルネッサンス時代との間には、もう四五世紀が経過している。きょうのあらゆる社会の現象は、その間に発展し、複雑化し、爛熟した世界の資本主義がもたらす必然的な諸事情に関係していて、その激甚な矛盾、相剋、その発展の統一の方式が現代の世紀の課題であるということを、一九三三年に、ルネッサンスを叫んだ人々は認めようとしなかった。これらの人々にとってその不条理は、むしろ当然であったとも云える。なぜなら、この人たちは、当時の日本の支配者が、侵略戦争に対する批判や超国家主義への疑問を封じた、その立場によりたって、社会に階級があり文化に堕落性がある現代の歴史的事実を否定したのだから。そして、歴史の現実の内容づけなしにただ人間解放を叫んだのであったから。彼等にはルネッサンスを、そういう角度からつかう必要があった。歴史的に発展する方向を示さない人間性の解放、情熱のよび出しは、ファシズムをやがて内容として与えるのに便利な下ごしらえであった。
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